漱石から芥川へ

今朝、この手紙を読んで、線を引く!

牛になる事はどうしても必要です。われわれはとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです。僕のような老猾なものでも、ただいま牛と馬とつがって孕める事ある相の子位な程度のものです。

あせっては不可(いけま)せん。頭を悪くしては不可せん。根気ずくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。決して相手を拵えてそれを押しちゃ不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうしてわれわれを悩ませます。牛は超然として押していくのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。

これから湯に入ります。

 

この曲のサビがあれからずっと耳の奥でなっています。

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「不自然は自然には勝てないのである。技巧は天に負けるのである。策略として最も効力あるものが到底実行できないものだとすると、つまり策略は役に立たないといふ事になる。自然に任せて置くがいいといふ方針が最上だといふ事に帰着する。」(大正四年『断片』)

「寿命で死ぬからね、これまでの自力もすべては他力、自然あると、僕は思うよ。生きている限り、使命は続くね」

「そんなこと言ってどうすんの?」という言葉は飲み込んで…「心の力」を強くする

 自分の嫌なこと、やりたくないこと、都合の悪いことは人に振って、

それでも嫌な思いをした時には、「〇〇が悪い」などと人の責任にする。
いつも、「忙しい~」、「負担だ~」と口癖のように呟いている。
そんなことがOKになったり、味方をする方も現れたりする不思議!。

そんな状況にうんざりして、「そんなこと言ってどうすんの?」と文句の一つも言いたくなるけどね、価値観が多様化するこの社会だからさ、そんな人の考えを変えようと努力するより、「まあ、いっか!」と受け入れて、自分自身が問題解決に向けてできることを考えた方がよいということだよね。

 当初、ある問題の解決という目的だったのに、そんな人とかかわる中で、その人への説得ということが大きな目標に摺りかわってしまってはダメダメ。

 僕に不快を与えるその人の存在は、その人が与えられた使命で、また、僕の「心の力」を鍛えてくれる人と思えば、「まあ、いっか!」と笑えるね。
 はい!こんな感じです。

 

デビュー30周年記念のCD。
昨夜、長女から記念のツアーに申し込んだと連絡あり。抽選突破を願う。
 とりあえず、今月はこのアルバムのツアーに行く。

 

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大夕張という街を知っていますか?~祖母の香り

 ~昨年、書いたものの公開です。

 

 懐かしい香り、しかし、もう二度と嗅ぐことはできない香り。その香りは、「こんな香り」と言葉では伝えることが難しい特有のもので、ただただ穏やかで安心感をくれた香りだ。それは、昭和四十年代、祖母の家の香り。  

 祖母は、三十年前に亡くなっている。また、その家は、当時、賑わった炭鉱町にあったが、現在は、街そのものがダムの底に沈んでしまい、訪ねることさえできない。

 今、この年齢になって、思い出してみれば、玄関から居間にかけての白菜の漬物の匂い、祖母の衣服から香る防虫剤の匂い、そして、祖母の部屋に漂うお線香の匂い、そんな匂いたちが混じり合って、祖母の家の香りであったように思う。

 小学校に上がる前、四、五歳の頃、お盆近くのことだった。次の日から祖母の家に出かける予定だった。玄関に虫取り網などを用意して寝た夜、泥棒が入って、父の枕元から手提げ鞄が盗まれた。当時、我が家は魚屋を営んでおり、その売上金が持ち去られたのだった。手口も巧妙で、私が準備していた虫取り網の網を引きちぎり、針金の部分を鍵状に折り曲げ、それを使って抜き取ったらしい。戸締りの緩さや、家族全員が気づかず寝入っていたことを思うと、今では考えられないのんびりした話である。

 次の朝、警察が数人に来て、バタバタしていた中、どのように祖母の家に行ったのかは記憶にない。ただ、覚えているのは、祖母の家の香りに息を吸った時、思わず涙がこぼれてきたということ。

 時代は令和、コロナ禍に不安を抱える毎日である。そんな中、赤や黄色のもみじに彩られたダムの景色は美しい。青く澄んだ空、水面に紅葉を映すダムの底には、穏やかで安心をくれた祖母の香りの詰まった宝箱が永遠に沈んでいる。

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ライブハウスツアーが間もなく。
オールスタンディングの2時間は若干辛いけれど、とても楽しみだよ。

再会

4月21日から、看護学院の講義が始まった。
今年で2年目なので、昨年の内容を振り返りながら、
実社会で役立つ言語能力や思考力を学んでもらいたい。
学生の中に男子は8名、随分、増えた。

やはり女子中心の学校なので、8名の存在は心強い。

また、前任校で卒業証書を渡した学生が2人。17,8歳になった彼女らはとても大人に見えた。元気そうで何より、うれしい再会であった。

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今年になってから、中学校時代の友人と会ったり、過去の同僚と会ったり、再会続き。
とりわけ、中学校の友人とは卒業以来で45年ぶり。次回、一緒に小学1年生の時の担任の先生を訪ねる約束をしている。

ありきたりなまとめであるが、出会いに支えられてきた人生だと思う。人生は出会いによって彩られると思う。

学校だよりの原稿「主体性を大切にする3つの理由」

本年度の最初の学校だよりです!

 

主体性を大切にする3つの理由があります。1つ目は「社会から求められる資質」、2つ目は「南学田小学校の教育の継承」、3つ目は「……」

令和5年度がスタートしました。様々な機会にお伝えしているように、教職員が心一つにして、「生徒の主体性の育成、心ときめく笑顔の教育」を推進してまいります。

どうぞよろしくお願いします。

 さて、なぜ、繰り返し繰り返し、「主体性!、主体性!」と叫ぶのか?その理由は?

理由は3つ!

理由1「これから生きる社会で求められる資質だから」

主体性のある人は意欲的に物事に取り組みます。自己研鑽に励み、仕事や多様な取組に対するモチベーションも高いと考えられます。自分に期待されている役割を理解し、自ら目標を設定するとともに、達成のための最適な行動を考え実行する人材が、正解のないこれからの社会で求められると思います。

理由2「南学田小学校の教育の継承」

私は1970年、栗山町の南学田小学校に入学しました。この学校は、小学生だった自分が今も鮮明に記憶に残っているほど、「主体学習」という指導方法を研究し実践していました。

授業がすべて児童主体であり、時に児童の代表が授業を進めたり、日常的に班学習が取り入れられていたり、そこには現代で提唱されている「主体的で対話的な深い学び」がありました。小学校での6年間の学びの中で培った「主体性」が今の自分の生きる力の基盤であると考えています。この教育の要素を教育に携わったものとして継承したいと強く思います。三笠中学校の「学びのスタイル」を通して、実生活で大いに発揮する「主体性」を育てたいと思います。

そして、最後に……

理由3「人生を楽しくできる」

「あれをしなさい」、「こうした方がよい」とあれこれ、指示され、こなす生き方をどう思いますか?私は楽しく思えません。自分の人生ですから、条件、制限、期待、役割等を考えながら、自分の導いた答えに強く正しく生きることが大切だといつも考えています。

自分の生き方を他人に委ねることなく、どのように生きたいのか、どのようなキャリアを積みたいのか、目標を持ち、主体的に適宜適切に判断しながら、理想に向かう生き方が楽しいと思いませんか?

生徒会の年間テーマは「努力は、明るい未来をもたらす」と聞いています。生徒の皆さんが明るい未来に向かって、どのような努力するか、主体的に考え、主体的に実行してほしいと期待します。

私も、随分、年齢を重ねてきましたが、「このまま死なねぇぞ~」「未だ生を知らず、いずくんぞ死をしらん」、生徒一人一人の笑顔のために、主体性を大いに発揮し続ける1年にしたいと思います。

我が魂の故郷……

「おはようございます!」
元気に挨拶をくれたのは、野球部キャプテンS君。帽子をさっと取って姿勢を正し、はつらつとした挨拶だった。私が中学校長に採用となり、初めて出勤した朝のことだ。「生徒が自分らしさを大いに発揮する学校を…」と、意気揚々、スタートラインに立った日。春の日射しが穏やかで優しい朝だった。
 三月になり、卒業式。式辞の中で、「自分なりの答えを見付け、強く生きてほしい」と卒業生にエールを送る。S君の進学先は私の母校だった。野球も続けると言う。S君を見送った時、「あなたが三年生の夏、あなたと、母校を応援に行くよ」と約束した。
 私の次男も母校の卒業生だった。学校生活の全てを野球に費やした。母校のユニフォームを着てグランドを駆ける姿が、父親として、大先輩として嬉しかった。誰よりも大きな声を出し、チームを盛り立てる次男がとても逞しかった。三年生となり、最後の夏大会、ラストゲーム。九回表までリードしていながらのサヨナラ負け。今でも、打球が背番号七を背負う次男の守るレフトに飛んだ瞬間を思い浮かべる。仲間同士の掛け声、保護者たちの声援、次男の涙を忘れることない。
 S君の最後の夏、私は約束を果たすべく予選会場のグランドへ向かった。約二年半ぶりの再会。グランドでキャッチボールをする彼の姿を見付けた。逞しく成長した彼の背中には、七番の文字、次男の夏がフィードバックし、胸が熱くなった。スタンドにいる私に気付いたS君は、あの出会いの春と同じく丁寧に頭を下げた。そして、満面の笑みを私にくれた。私も大きく手を振って応えた。

私の母校への思い、次男の情熱、教え子を見守る気持ちが重なった瞬間だった。彼の笑顔で、三つの感情が一つの糸でつながり、大きな感動となって私の胸を一杯にした。

そして、「我が魂の故郷なり…」と校歌を選手と共に笑顔で歌ったのだった。

自分の決断に強く正しく生きているのだ

「死にますか?」
「調べてみないと」

医師の答えがあまりに正直だったから、私は却って、冷静になった。癌の告知を受けるなんて初めてのこと。もう少し遠回しに告げられるものと勝手に想像していた。
 二十五年前、三十二歳、九月下旬のこと、上咽頭の癌だった。
「お父さんね、四か月くらい入院することになってね」と当時、四歳だった長男に話した。
「じゃあ、僕の誕生日には間に合うね」

一月生まれの長男はそう答えた。
「そうね、大丈夫よね」

妻が言葉を詰まらせたものだから、私も涙一つこぼれて、それから止めどなく頬を流れていった。
 大学病院での四か月の放射線治療をした。
もっとも切ない時間は、二十一時の時間外玄関。見舞いに来てくれた妻の後ろ姿が雪舞う駐車場に小さくなっていく。次男を抱いて、長女の手を引きながら。それを追いかけるように、小走りに長男が付いていく。

「定年退職、六十歳まで働けますか?」

「大丈夫」と主治医は答えた。

この言葉を信じ、家族をはじめ、たくさんの人の励ましにより完治できた。もちろん、長男の誕生日に間に合った。
 しかし、その一年後には潰瘍性大腸炎で大腸を全部外してしまったり、さらには、C型肝炎インターフェロンの治療に長くかかったりした。結構な病気とお付き合いしながら、二十代、三十代を生きて実感したこと、「それは簡単には死なない」ということ。自分がかなりしぶといタイプではないかということだ。放射線をかければ、唾が出にくくなったり、大腸が無ければ、常にお腹はゆるかったりするわけで、それなりの後遺症はあるものの、「これが普通」と思ってしまえば、自分なりの生活ができた。
 自分の体を嘆いても、そこからは何も生まれないし、いつか死ぬ日のことを考えたところで何の意味もない。論語の言葉「未知生、焉知死」が心に浮かんだ。今を精一杯生きるのだと。また、今、こうして生きている自分に、「定命」を実感した。生まれた日に設定された、死ぬ日までをしなやかに生きるのだ。死を当たり前として、限りある人生であると考えることによって、生きることが輝くように思えた。
 だから、好きなことをやった。やりたいことからやった。そんな生き方の中で、教師という仕事が、所謂、天職に思えた。それは、次世代を担う子供たちを導くなどという偉いものではなく、彼らの青春という煌めく時代に触れていたいという気持ちだった。そして、その輝きを大事にしたいと考えた時、校長という役割を目指した。
 しかし、仕事人として、三人の子供の親として生きた、この期間が、人生という物語の何章目かに当たるならば、その章を静かに閉じる展開にはならなかった。

「どちらを選択するか、急がず、よく考えてみてください」

医師は、扁桃腺近く広範囲に癌があることを告げ、その治療法の選択を私に促した。
「一つは手術です。首から切って…一日かかる大手術です。後遺症として、飲み込めなかったり、言葉が不自由になったり…」

「仕事は続けられますか?」

「個人差がありますが、難しいですね」

「二つ目は化学治療です。完治を目指すものではありません。医学が進歩する中、完治の可能性がないわけではありませんが…」

「仕事は続けられますか?」

「薬の効果が続く限り続けることができます」

「効果がなかったとしたら?」

「最悪、最短、一年半でということも」

 

令和四年四月、入学式。

「毎日をワクワク過ごすこと、自分のやりたいことを見付けること、自分の答えを導く力を身に付けること」と新入生にエールを贈る。

手術をしてから二年になる。

「首から切らなくても、口から手術できますよ。この手術、得意ですから」

その言葉通り、術式が変更となり、術後の後遺症も軽減され、今を生きている。仕事人としてのゴールまで、一年と少し。

「喉の手術をしていて、発音がうまくできなくてね、話していること分かるかい?」

そう尋ねると、生徒は大きく頷いてくれる。

これが生かされている自分の役割なのだ。いつか分からないが死ぬことになっている時が来たら、自分に課せられた役割、使命が終わる時である。正直、何が「自力」で、何が「他力」なのかが分からないが、我が人生だから、その時々の「自分の決断に強く正しく生きているのだ」と思い込んで生きていくことにしよう。

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