生かされること 生きること 9(自分史)

9 命⑤~上咽頭腫瘍 1

 転勤して、平成5年から2年生の担任をし、その生徒たちが平成7年の春に卒業。引き続き、今度は1年生の担任になる。

 春から耳の調子が悪かった。3月に、東京ドームでローリングストーンズのライブへ。聞こえが悪い。個人病院なども受診したが、「炎症だね」と言われて、それなりの治療受けたが、どうもよくならなかった。

夏には、ミスチルの野外フェスへ。一緒に行った友人に、「耳の聞こえが悪いんだよね」などとお話していた。

 そして、9月。学校祭の振り替え休日に、当時、妻が勤務していた耳鼻科を受診。北海道大学からの出張医に見てもらった。

「まずいかも……」という見立てで、細胞を採取しての精検。

 

 1週間後の受診。
 「上咽頭腫瘍」との診断。
 その時のやりとりをよく覚えている。

 

医師「上咽頭腫瘍ですね」
私 「癌ですか?」

医師「みたいなものです」
私 「死にますか?」

医師「調べてみないと…」

 所謂、告知とはこのことだと思った。

 

 学校に戻って、教頭に報告。

「癌でした」

「辛いかもしれないが、家族も……」と何を言っているか分からなかったが、僕を少しでも励まそうと言葉を選んでくれているという気持ちは理解できた。

潰瘍性大腸炎との闘いの他に、もう一つ、おまけどころか、それ以上に重い荷物を背負うことになった。

 

 教室に戻って、給食時間。
 お昼の放送で、岡本真夜さんの「tomorrow」が流れた。

 「自分に明日が来るのか」と急に思いが込み上げてきて、涙が出た。
生徒の一人が気づいて、「先生、どうしたの?」と何度も聞いてくれたが、言葉が出てこなかった。

 

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生かされること 生きること 8(自分史)

8 命④~潰瘍性大腸炎 4

 結婚式を挙げ、それからの数年間は、11月頃くらいになると、多少、悪くなるものの、上手に病気と付き合うことができた。

 その間に、長男、長女、次男にも生まれた。

 職場も道東の町から、故郷に近い、道央の町に異動できた。これが平成5年のこと。この町は、札幌のベッドタウン化を打ち出し、積極的に人口増の施策を行っていた。
そのような情勢の中で、学校も、着任当時、1学年2学級の小規模だった学校が5年くらいの間に、1学年5学級の大きな学校へと変わっていた。

 そして、どんどん学校が大きくなる中で、その対応が後手後手になり、学校が荒れに荒れていった。授業が不成立、校内の喫煙、器物破損など、毎日毎日、その指導、処理に追われた。

 

このころ、この本を繰り返し読みました。
「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」 

孔子 (新潮文庫)

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生かされること 生きること 7(自分史)

7 命④~潰瘍性大腸炎 3
 入院してすぐ、絶食となった。鎖骨の辺りから、管を入れて、24時間の点滴。

どんな薬を使っていたか、あまり覚えていないけど、ステロイドを点滴で流しながら、治療してたように思う。

 カメラの前も、その頃は、マゴコロ―ルがなくて、ラキソベロンだったかな?下剤を使っていて、なかなか大腸がきれいならず、結局、浣腸をかけたりしながら、やっていた。

 なかなか炎症が収まらず、出血もひどかったから、数度にわたって輸血をした記憶もある。

 内服で、名前は忘れてしまったなあ~。オレンジ色の大きな玉の錠剤を飲んでいたように思う。サラゾピリン?っていったかな~。

 12月の入院だったから、お正月に帰ることもできず、病院で年越しだった。

救いは、すでにお付き合いをしていて、その後、妻となる方がその病棟の看護師、その頃は看護婦だったこと。

 4月に結婚することになっていて、結婚式の日取りも決まっていた。

 学生時から、彼女の勤める病棟に入院していたということ。

 病棟の方々も、新婦の職場の方々として、当然、結婚式にご紹介していて、ドクターも結婚式に間に合うようにと一生懸命に手を尽くしてくれた。

 彼女も、結婚式間際まで、入院していた潰瘍性大腸炎患者と結婚してくれたのだから、ありがたいというか、感謝というか、「愛」というか……。

 その後、寛解し、3月の中旬に退院した。

 

 

 

生かされること 生きること 7(自分史)

6 命③~潰瘍性大腸炎 2

 高校、大学と素敵な思い出はたくさんあり、書き残したい。それは、また、後日。

 潰瘍性大腸炎の話を進めます。

 就職して、1年目、冬が近づく頃になると調子を崩した。腹痛、下痢、出血。便器が黒く赤くなる毎日。食事も十分に摂れなくなって、地元の病院に勤務が終わってから通って、点滴してもらってという感じで凌いだ。

 それでも、暖かくなると病状も落ち着いて、就職して2年目、4月からは学級を担任するようにもなった。

 専門は国語だったので、書く指導を中心に自分なりに研修を深め、国語の教員としてのネットワークを広がっていった。担任としても、生徒の心の居場所となる学級づくりを目指して、自分なりの力を尽くしていた。

 人生的にも、翌年の4月には結婚すること決めていた。

 しかしながら、11月、寒くなってくると絶不調。
腹痛、下痢、出血。

 日が経つにつれて、腹痛が半端なくなり、学生時代に入院した大学病院を受診。即、入院決定。

 12月に入院した。
 記憶が正しければ、12月15日金曜日。前の日、吉田拓郎信者だった僕はコンサートに行ったような気がする。「吉田拓郎 コンサートツアー89~90 人間なんて」
よくその2時間以上の時間、耐えたものだと思う。

 

そこから、約3か月に渡る入院生活が始まる。

 

ひまわりのころ

ひまわりのころ

 

 

 

生かされること 生きること 6(自分史)

6 命②~潰瘍性大腸炎 1

 大学4年の時、教員採用にも合格していて、あとは、前年度に落とした社会科教育の単位させ通れば、無事、卒業という年の1月。
腹痛、下痢、出血という状況になった。

そんなにひどい状況ではなかったものの、友人に付き合ってもらって、市内の胃腸内科へ。

 診断は簡単に付いて、「潰瘍性大腸炎」。即、大学病院への入院が決まった。

 卒業式の直前まで、潰瘍性大腸炎の病状を確かめるために入院した。

 退院の頃には、痛みも下痢等も止まり、所謂、寛解状況で、就職。道東の町へと向かった。

 これが昭和63年のこと。

 社会科教育の単位は、どうにかこうにか合格。
どうにかこうにかとは、テストが終わった瞬間、全くできなかったので、教授の下へ。
「入院します。採用試験は通っています……」と話したら、「この本『指示の明確化で授業が楽しくなる』を読んでレポート書くこと」と課題をいただいた。入院前に提出。

 

掲示板に、合格者の発表。僕の学生番号に教授からのコメントがついていて、「対応に誠意を感じた」と。

 

 

 

生かされること 生きること 5(自分史)

5 生きる力④

 このバンド、固定メンバーは3人だった。ライブの度に、ドラムやキーボード、時には管楽器のサポートメンバーを加えながら、この後、40年に渡ってあちこちで演奏することになる。メンバーの中にすでに亡くなった仲間をいて、時の流れを感じる。こだわっっていたことは、オリジナルの曲を演奏し続けたこと。自分たちで、曲を作って演奏し続けた。

 もう一つは、自分たちで自分たちのライブ、当時はコンサートと言っていたが、企画し、ブッキングしたりしながら、あちこちで演奏した。もちろん、既成のイベントにも参加したけれど……。

 高校生、大学生の頃はお金がなかったし、チケットが売れるわけでもないから、会場や機材を借りたりすることが難しかった。
 

 

 

しかし、チャリティーにすると費用がかからない会場があったり、知人を頼って機材を借りたり、そんなマネージメントする能力は、どこで身に着けたのか、メンバー中でも長けていた。
 たくさんの街で演奏させてもらった。
 岩見沢、札幌はもちろん、旭川、栗山町、夕張、黒松内町蘭越町美唄妹背牛町、江別、南幌町など……現在、昔の声は失ったけれど、自分なりの音楽活動を今後も続けていきたいと思っている。

 

生かされること 生きること 4(自分史)

4 生きる力③

 勉強は苦手だった。
 勉強というより、覚えることが苦手だった。

 

 それでも、高校は、何とか近隣の所謂、進学校と言われる学校に入学した。定員270名の学校に入試の成績200数番という結果で滑り込んだ感じだった。

 田舎の中学校ではそれなりであった僕もここでは、勉強もだめ、スポーツもだめといった、マイナー生徒となった。

 そんな中で、何となく意気投合した仲間と音楽活動を始めたのは、この後の人生に大きくかかわる大きな出来事だった。

 そのうちの一人は、たまたま入学時の座席が前後だった仲間。この偶然が以後、40年以上にわたっての付き合いになるとは、思ってもいなかった。

 

 そして、このバンド活動を通して、僕は生きる力を育んでいった。