やりたいことをやりたいように

 

 毎日、暑い日が続いています。皆さん、ご機嫌いかがですか?

「子育て」についてというお題で原稿依頼をいただいたものの、単身赴任を20年も続けた私にとって、気が付けば、長男、長女、次男も各々社会人として自立し、家庭人にもなっていたという状況であり、このような機会に何をお伝えしたらよいかと悩むばかりでした。

そのような中、長男夫婦とspitzのライブに出かけ、懐かしい曲から最新の曲まで大いに楽しむことができました。デビュー30周年ということであり、まさに30歳の息子にとって同時代、息子の成長の過程にspitzの曲が流れていたわけです。
 帰り道、「青い車」「Robinson」が聞けた満足感に包まれながら、11月に初めて孫が生まれる予定であることから、長男の幼児期の話にも至り……そんな幸せそうな二人と話していて考えたこと。

「こうあらねば」、「父さんの時代は…お母さんは…」ということを強く言っても仕方がないということ。

子供は私たちの経験しなかった時代、社会を生きるのであって、私の経験に基づく、所謂、常識や価値観は役に立たないものも多い、そんな中で「こうあれ、こうすべき」などというのは、時代に応じていない目標設定にもなりかねず、もし素直に親の言いつけ通り頑張る子供がいたら、自己肯定感を下げるばかりである。多くの人がスマホを使い、スマホから仕事が生まれ、YouTubeから文化が発信される、多様な価値観の世の中で、親の経験、親のこだわり、親の都合等がどれほど有効かと……。

「息子夫婦はどんな親になるのだろう?」とも考えて、こうなってほしいとなんていうと、結局なんの反省もないことになるので、まずは心の中で思うだけにして、いつか相談されることもあれば、「参考までに……」と伝えようと思ったことが次のことです。

「やりたいことやらせたい」

無我夢中でやれることを見つける手助けをしてほしい。そのことが人の喜びにつながることならとってもいい。そして、それが将来、そのことによって報酬が得られ、仕事となるならもっといい。やりたいことを通して、個性を磨き、やりたいことによって自分らしさを発揮してほしい。

もし、子育てついて、聞かれることがあったら、「親として、やりたいこと探しの促し、支援、かかわりができるといいと思うよ。参考までに……」と答えようと思います。

「幸せだ」と思う気持ちは主観であって、人からあれやこれや言われるものでありませんよね。「自分が幸せ」と思えればそれでいいのです。そのためには、自分のやりたいことをやることが大切だと思います。

息子夫婦にも、まだまだ、「やりたいことの追求」をと思いますし、私ですか?

「私は、生まれてくる孫と共にspitzのライブに行き、親子3代で、『大きな力で空に浮かべたらルララ宇宙の風に乗る』と大きな声で歌いたいです」

 

北海道も毎日、暑い!

 

生かされること 生きること 22(自分史)

23 命⑯~中咽頭癌 3

 手術まで、あれこれと検査があったり、移植の関係から形成外科を受診したりもした。

 手術は丸一日かかると言うことだった。
 手術日も決まって、入院日を待つばかりになっていた。
 しかし、予定の変更。
 首から切らなくても、口から手術できると。所謂、「経口的手術」への変更だった。当然、こちらの方が、後遺症も軽い。

 入院日も変更になり、職場のみんなで作り上げてきた公開研究会にも出席できた。

 

 11月中旬から入院、手術して、約1か月。

 年内に学校に戻り、生徒の皆さんが温かな拍手で迎えてくれた。

 

 目には見えないほどの、CTにも映らないほどの取り残しの癌はある可能性はあるものの、この2,3年のうちに命ごともっていかれるようなことはない。

 後遺症は、

呑み込めない、
すすれない、

 何かと鼻から抜ける。
 言葉が分かりにくくなり、音域が狭まったり、音程が取りにくくなったり…歌えなくなった。

 

 住宅の日当たりが悪くって、さらに風もスース―って感じ。

外より寒い。

これらで、体の中から温めています。

 

 

生かされること 生きること 21(自分史)

22 命⑮~中咽頭癌 2

 治療方法は3つ。
 1つは、放射線による治療

 2つ目は、化学治療、所謂、抗癌剤による治療、

 3つ目は、手術。

 受診の際、医師から「お久しぶりだね」と。20数年前に上咽頭の治療をした時に面倒をみていただいた医師のうちのお一方だった。今では、教授になられていて、時の流れを感じた。また、覚えていていただいたことをうれしく思った。

 放射線は、上咽頭の時に使っているので、2回は使えない。20数年経過していても、使えないほどの強烈なものだということ。

 抗癌剤は、奇跡的に効くこともあるが、癌の進行を遅らせるもので、根本的に治療するものではないということ。
 手術は、首から切っていて、顎の骨を外し…太ももから肉を持っていて移植するなどの大掛かりなもので丸一日かかるのとのこと。後遺症も、飲み込めなくなったり、話せなくなったりというようなことがあるかもしれないと言われた。仕事を続けることは難しくなるかもと。このような状況であれば、抗がん剤をと考えるのだが、先述したように根本的な治療ではない。

抗癌剤治療を選択した場合、奇跡が起きなかったら、どうなりますか?」

「今の状況から考えれば、1年半くらい」

「どうなるんですか?」

「ひどく出血して……」という回答だった。

 

 1年半は、あまりに短すぎた。
 後遺症のリスクは覚悟で手術を選択した。

 次男と院内のレストランでカツカレーでランチ、言葉が出てこないまま、カツの半分を次男の皿に乗せた。

 

 そう一人で初めから協力者を期待しちゃ何もできないよ。

 

 最近のおやつはこれです。

 

 あいみょん、好きです。

 

生かされること 生きること 20(自分史)

21 命⑭~中咽頭癌 1

 時代は平成が令和へ、その元年に校長として3校目の学校へと異動。4月から喉の痛みが取れなかった。いくつかの個人病院を受診したものの、頓服的な痛み止めをもらう程度で根本的な解決にならなかった。

 そのうち、夏になって、高熱が出ることがあったり、瞼が腫れることがあったり、総合病院へ、初診で、「やっぱりか……」の結果だった。よくないものがありそうなので、精密検査をとのことだった。

 そして、熱が下がらなかったので、そのまま入院となった。

 CTほか、様々な検査をして、診断結果は、「中咽頭癌」。

 20数年前に「上咽頭癌」や「潰瘍性大腸炎」で治療したあの大学病院への紹介状をもらい、受診することとなった。

 9月下旬、看護師をする次男に付き添われて、大学病院に向かった。

 

 3校目の学校のご近所でした。
コロナ禍にあって、労いにお菓子もいただきました。

 

 しっかり眠れてますか?
これらを使うようになって、

眠りが変わりましたよ。

 

生かされること 生きること 19(自分史)

20 生きる力 ⑦

 指導主事として、北海道教育委員会に勤務することを終え、学校現場に戻った。
10年の指導主事時代でたくさんの人に出会ったし、教員ではできない経験もした。終わってしまったことだし、やって無駄なことはないので、よかったと思っているが、指導主事にならなかった人生と比べるとどうだったのかは疑問だ。

 しかし、きっと、運命と呼ぶか、宿命と呼ぶか分からないけれど、決められてた使命だと思い、価値ある年月であったと考えている。
 この頃に考えたのは、「人は病気や事故では死ぬのではなく、寿命で死ぬということ」

「人は生きる使命をもち、生かされているということ」

 教頭として学校に戻ることになった。元々、中学校の教員であったが、今後、中学校の校長になることを考えて、敢えて、小学校での勤務を希望した。

 教頭として3年、その後、校長に。

 現在、校長に採用されて、4校目で、定年退職まで3年を切ったところ。

ここが最後の勤務校となるだろう。

 

 短編を読む!

 

 

 

 

生かされること 生きること 18(自分史)

19 命⑬~C型肝炎

 僕自身の病歴から言えば、通常なら大きな治療もおまけみたいなもの。恐らく、母子感染だろう、肝炎の症状が血液の状況に現れるようになった。
日常が前述のような生活ため、体の不調は疲労なのか、肝炎によるものなのか分からない状況だった。

 母は、平成14年、肝炎と糖尿病を併発し、最後は肝癌により、若く64歳で他界した。指導主事になることが決まった僕に、「遠くに行くのか?」と尋ねたのが最後の言葉だった。

 

 C型肝炎の治療はインターフェロンで、かなり無茶な対応をしてもらった。

というのも、忙しさから十分に休むこともできず、朝、早朝に採血に行って、その後、勤務。夜、7時くらいに夜間外来に行って、注射してもらうということをやっていて、「次回は医師に診断してもらうように」といつも言われながら、結局、夜間に通い続けた。

このインターフェロンも劇的に効果があり、最初の数回でウイルスが消えた。

 

短編小説の勉強がしたくて読んだ本。

 

 組織作りについて勉強した本。

 

 

 

 

生かされること 生きること 17(自分史)

18 生きる力 ⑥

 指導主事の一番の仕事は、各学校を訪問し、授業を参観したり、それにかかわるアドバイスをしたりする。また、事務的なものとして国や北海道が実施する教育関係の調査の集約、さらに研修等の立案や運営、各種資料づくりと多岐に渡った。
限られた勤務時間の中で、これらの仕事は終わることなく、早朝から勤務したり、帰りも日を跨いだりすることも度々だった。

 学校現場に比べ、上司との関係も面倒で、飲み会の設定・変更にかかわり、上司の自宅に行って土下座することもあった。

 もちろん、面倒をよく見てくれて今でも交流のある方もいらっしゃるが、職員全体の前でミスを公表し笑いの対象にしたり、「ついでだから言うけど…」と言いながら憂さ晴らしのように指導してみたりと結構な方々もいた。しかし、考え方を変えれば、これだけのことをしても壊れないと見込まれてのことだったと思うので、そう考えれば過去の出来事として封印できる。

 このようなエピソードを妻に話すと、「好きでなったんでしょ。私は、中学校の先生でよかった」と。全くその通りだろう。散々、病気で心配かけて、元気になったら。家族を放って好きなことをやっているのである。「愚痴なんて言うな」ということだろうし、指導主事で働くことは経済的に潤うことなく、却って、単身赴任でお金がかかり迷惑な話だった。

 

季節ですね。さっと食べれるし単身赴任者にはうれしい、おいしいよね!