自分の決断に強く正しく生きているのだ

「死にますか?」
「調べてみないと」

医師の答えがあまりに正直だったから、私は却って、冷静になった。癌の告知を受けるなんて初めてのこと。もう少し遠回しに告げられるものと勝手に想像していた。
 二十五年前、三十二歳、九月下旬のこと、上咽頭の癌だった。
「お父さんね、四か月くらい入院することになってね」と当時、四歳だった長男に話した。
「じゃあ、僕の誕生日には間に合うね」

一月生まれの長男はそう答えた。
「そうね、大丈夫よね」

妻が言葉を詰まらせたものだから、私も涙一つこぼれて、それから止めどなく頬を流れていった。
 大学病院での四か月の放射線治療をした。
もっとも切ない時間は、二十一時の時間外玄関。見舞いに来てくれた妻の後ろ姿が雪舞う駐車場に小さくなっていく。次男を抱いて、長女の手を引きながら。それを追いかけるように、小走りに長男が付いていく。

「定年退職、六十歳まで働けますか?」

「大丈夫」と主治医は答えた。

この言葉を信じ、家族をはじめ、たくさんの人の励ましにより完治できた。もちろん、長男の誕生日に間に合った。
 しかし、その一年後には潰瘍性大腸炎で大腸を全部外してしまったり、さらには、C型肝炎インターフェロンの治療に長くかかったりした。結構な病気とお付き合いしながら、二十代、三十代を生きて実感したこと、「それは簡単には死なない」ということ。自分がかなりしぶといタイプではないかということだ。放射線をかければ、唾が出にくくなったり、大腸が無ければ、常にお腹はゆるかったりするわけで、それなりの後遺症はあるものの、「これが普通」と思ってしまえば、自分なりの生活ができた。
 自分の体を嘆いても、そこからは何も生まれないし、いつか死ぬ日のことを考えたところで何の意味もない。論語の言葉「未知生、焉知死」が心に浮かんだ。今を精一杯生きるのだと。また、今、こうして生きている自分に、「定命」を実感した。生まれた日に設定された、死ぬ日までをしなやかに生きるのだ。死を当たり前として、限りある人生であると考えることによって、生きることが輝くように思えた。
 だから、好きなことをやった。やりたいことからやった。そんな生き方の中で、教師という仕事が、所謂、天職に思えた。それは、次世代を担う子供たちを導くなどという偉いものではなく、彼らの青春という煌めく時代に触れていたいという気持ちだった。そして、その輝きを大事にしたいと考えた時、校長という役割を目指した。
 しかし、仕事人として、三人の子供の親として生きた、この期間が、人生という物語の何章目かに当たるならば、その章を静かに閉じる展開にはならなかった。

「どちらを選択するか、急がず、よく考えてみてください」

医師は、扁桃腺近く広範囲に癌があることを告げ、その治療法の選択を私に促した。
「一つは手術です。首から切って…一日かかる大手術です。後遺症として、飲み込めなかったり、言葉が不自由になったり…」

「仕事は続けられますか?」

「個人差がありますが、難しいですね」

「二つ目は化学治療です。完治を目指すものではありません。医学が進歩する中、完治の可能性がないわけではありませんが…」

「仕事は続けられますか?」

「薬の効果が続く限り続けることができます」

「効果がなかったとしたら?」

「最悪、最短、一年半でということも」

 

令和四年四月、入学式。

「毎日をワクワク過ごすこと、自分のやりたいことを見付けること、自分の答えを導く力を身に付けること」と新入生にエールを贈る。

手術をしてから二年になる。

「首から切らなくても、口から手術できますよ。この手術、得意ですから」

その言葉通り、術式が変更となり、術後の後遺症も軽減され、今を生きている。仕事人としてのゴールまで、一年と少し。

「喉の手術をしていて、発音がうまくできなくてね、話していること分かるかい?」

そう尋ねると、生徒は大きく頷いてくれる。

これが生かされている自分の役割なのだ。いつか分からないが死ぬことになっている時が来たら、自分に課せられた役割、使命が終わる時である。正直、何が「自力」で、何が「他力」なのかが分からないが、我が人生だから、その時々の「自分の決断に強く正しく生きているのだ」と思い込んで生きていくことにしよう。

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