「決断」というテーマで文章作成中 伝わるかな?

連休に入ってから,まとまったものを書こうと思って,現在,作成中。

まだ,途中だけど,この思い伝わるかな?

 

令和二年九月、この癌の告知を受けた。癌は初めてではない。平成七年十月、上咽頭に癌になり、約四か月入院して放射線による治療した。それから、二十五年、扁桃腺の近くに新たな癌ができたのだ。その当時、三十二歳だった僕は、「六十歳の定年退職まで働けますか?」と放射線科の主治医に尋ねた。

「そのために全力で治療します」と力強く答えてくれた。

しかし、定年まであと五年という時に、新たな癌が私を深い不安に陥れたのだった。

 

地方の病院で告知を受けた後、今後の治療方針を決定するため、看護師をしている次男と共に、大学病院に向かった。上咽頭癌の治療をした病院である。耳鼻科の診療室、医師に「やっぱりそうだ!」と迎えられた、そして、「名前を見て、そうじゃないかと思っていましたよ」と。二十五年前、治療してくれた医師が、今は、教授となっての再会だった。

遠い昔の自分を知っている人に治療してもらえる。このことで、不安の沼にズブズブ沈みかけていく中、救いの手が差し伸べられたように感じた。

 

鼻からカメラが入いる。一瞬、ツーンとする。窓から晴れた空を見る。澄んだ青色が遠くまで見えて、ビルの街を覆っているように見える。

医師は、「癌は広い範囲に及ぶ」というようなことを前置きにして、これからの治療について、3つの方法が考えられると説明した。

一つ目は放射線。完治を目指して、できるならこの方法が1番よいということだった。しかし、この後、放射線科を受診して、今回は放射線による治療は無理と判断された。上咽頭に照射した際、かなり広い範囲に放射線がかかっていて、今回も放射線治療をすると重複する部分が出てくる。二十五年経過しても、重複した照射はできないということだった、

二つ目は手術。首のから切って、顎の骨を一時的に外し、癌を取る。取った部分には、太腿からとった肉を移植する。丸一日かかるような大がかりの手術になる。

そして、後遺症として、呑み込めず、口から十分な栄養を摂取することが難しくなることもある。さらに、「言葉が出なくなることもある」と説明された。

 

三つ目は化学治療、所謂、抗癌剤による治療だ。これは癌の進行を遅らせるというもので完治を目指すというものではない。奇跡的に癌がなくなったという症例もないわけではなかった。しかし、それは奇跡に近い。ただ、医学が日々、進歩する中で、より効果的な抗癌剤が開発される可能性がないわけではなかった。

 

命を考えれば、手術するのが賢明な判断だろう。当然、医師からも手術が提案されると思っていた。しかし、医師の説明は意外だった。

「よく考えて決断せよ」ということだった。

手術をすれば、想像以上に後遺症が辛いということだ。仕事柄、人前に立ち、話すということが難しくなくかもしれない。口から十分に食べることができなくなるかもしれない。このような後遺症を抱えながら仕事を続けるは無理かもしれないということだ。

六十歳まで、あと、五年。定年のゴールテープは見え始めていた。

平成七年の上咽頭癌、さらには、平成八年には潰瘍性大腸炎により大腸のすべてを摘出していた。それなりの後遺症を抱えながら、ここまで生きてきた。天職と思う、「人を育てること」に情熱を燃やし、今日まで生きてきた。

校長として、学校を任され、三校目、「生徒が自分らしさを生き生き発揮できる学校」にしたいと、今もやりがいを感じる毎日だった。

この仕事を失うことは、命を失くすことに等しい。

 

化学治療の効果ついて話を聞く。

「効果は人それぞれだね」

私は「もし、十分な効果が得られず、最も早く命を失うことになったら…?」と聞いた。

多少の喉の痛みがあり、時より熱が出るようなことはあったものの、仕事ができない状況ではなかったので、言葉よりずっと楽観的な思いでいた。

しかし、医師の回答は予想外だった。

「早ければ1年半で、出血し始めて…」

1,2年という年単位ではなく、半年と示されたことに現実感があった。

「1年半で死ぬこともあるんだ」とボーっとした。胸がザワザワして、つかみどころのない思がした。

「次回までよく考えて決めてくださいね」と自分で決めなくてはならなかった。以前の上咽頭癌の時とは違っていた。この時は、命の問題と生きる方の問題を合わせて考えることができた。また、自分自身が決断することなく、医師から提示された放射線による治療を受け入れ、信頼して、全てを委ねればよった。

今回は、命を選ぶか、生き方を選ぶか、どちらかを優先しなくはならない。

1年半の命と天秤にかける後遺症だから、かなりひどいものなのだろう。だからと言って、抗癌剤の奇跡、可能性に託す勇気を持つことができなかった。

帰りの車の中がひと言、つぶやく。

「1年半は短いよね」と。

いつからか、「人は病気や事故で死ぬのではない。寿命で死ぬのだ」と考えるようになった。それは、癌になっても、大腸を失くしても、こうして生きてきたから。たくさんの人に出会い、時にわがままであっても、優しい仲間に支えられて、今日があるから。

病気も事故も人生における自分の果たすべき役割であり、その使命を終えた時、これが寿命だと。

こう言うと,とても潔く,死を受け入れ生きているようだが,今回のような新たな生死にかかわる岐路に立ったときそのような割り切った生き方,考え方に達していない自分を自覚した。これまで自分が考えてきたように,寿命というものが設定されているのなら,その終わりや残されている使命を教えてほしい。そこから逆算して,この決断をしたいと思った。

手術をして,職業を続けられなくても,後遺症を受け入れながら,命を延ばしていく人生。

抗癌剤を投与しながら,不安を抱えながらも,仕事を続け,奇跡を願う人生。あっと言う間に終焉を迎えるかもしれないけれど,最後まで天職と思えることを全うできた生き方。

「手術をするか,しないか」,この選択はどちらも,デメリットが大きすぎて,前に足を進めることができなかった。

 

令和4年4月。

あれから2年以上が経過した。この間のほとんどは,コロナ禍にあり,多くの制限や条件のある毎日であった。若干,感染状況は落ち着き,このまま収束してくれることを願っている。

 

終わりからの2番の入学式。今回が終われば,ラスト1回だ。保護者も,上級生も参加して挙行できた。

体育館のステージから,生徒に向って、

「式辞。令和四年度,本校に入学される三十五名の皆さん,入学おめでとう。皆さんの入学を心からうれしく思います」と話し出す。

そして,鼻から息が抜け、言葉がはっきりしないから、心配になり

「話してること分かる?」と尋ねる。コロナ禍で大きな声を出せない生徒は、『大丈夫』と手を振ってくれる。

電話では名前すら分かってもらえないこともある。相手を不審な思いにさせ、電話を切られることある。

食べ物は呑み込みにくく、さらに蒸せて咳き込む。外食時には、このご時世だから、他のお客さんに睨まれることもある。食べた物がうまく喉に流れず、鼻から出てくることもある。コロナ禍にあり,職業のお付き合いによる会食等の機会がないことは助かっている。

空しくなるのは,ギターを持った時,歌えないこと。高校時代から,仲間と共にバンド活動を続けてきた。その時々の思いを歌にして,自分たちなりのメッセージを伝えてきた。しかし,今は音程も取れないし,言葉もはっきりしない。人前で歌うことなど,まずはできないだろう。

あれから,二年以上経ち,生きてしまっているから,もし,寿命があと十年以上に設定されているなら,一年短くしてもらってもいいので,歌える一年がほしいなどと思うこともある。これも命あってのことだ。

 

手術を決断した。後遺症を抱えながらも,命を優先し,生きていこうと決意した。おにぎりを美味しく食べる,しかし,飲み込もうとした瞬間,蒸せて咳き込み,耐えられず,米粒が目の前に飛び散る。そんなことは日常に起こる。情けない気持ちがこみ上げてくることもある。しかし,給食も校長室で一人で食べるから,そんな姿を人にさらすこともない。咳き込む音が職員室に聞こえると,不快だろうからと思いドアを閉めると,「気にしないので開けておいてください,のどを詰まらせてるのに気づかずにいたら大変ですから」と優しく笑ってくれる。

 

ご縁があって,看護学院の講師を依頼され,二十五人の将来の看護師と共に,国語表現法を学んでいる。新たな挑戦だ。「話していることは問題なく,分かりますよ」という言葉にほっとする。これまでの長い入院生活中で,多くの看護師の皆さんに支えてもらってきたから,恩返しできる,そして,人材育成できることがうれしい。

 

あともう少し~まとめ的なことを書いたらおしまい!