若い人

若い人たちから元気をもらったり、学びをいただいたり、有難いね。

土曜日は、あいみょん

楽しかったなあ、元気をもらった。

「十人十色」文芸社の自分史の募集。

短編部門に応募予定。下書きを職場の若者に読んでもらって、修正中。

真剣に読んでくれて、思ったことをしっかり伝えてくれた。

もの凄く参考になった。

赤を入れた、うん、ずっと分かりやすくなった思う。

若い人から刺激をいただいています。

GW明け、コロナの感染状況はどうでしょう?
若干、不安ですね。

この曲も、主題歌だったドラマも好きでしたよ。

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上を向いて歩こう

昨日、バンドのメンバー、高校時代から40年に渡る友人から連絡ある。

ブログを読んだとのこと。

近況報告を少し。「あいみょんのライブに行く」って。偶然?必然?びっくりだね。会場で会えるかな?

今朝、これを見てた。

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「あそこで会えてよかった」

「もっと話したかった」

「ありがとう。ごめんなあ」

「……笑っていると思います」

「えぇ、天気やなぁ」

朝から潤んだわ。

 

とりあえず、今日も笑顔でいこうかね~。

長女が「和義のライブにも久しぶりに行きたいね」と、ラインで。
これが新しい曲かな?

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自分史 今年も挑戦してみようと~

先日、「決断」というテーマの文章募集があって応募。

次は、昨年も挑戦したこれ。

www.bungeisha.co.jph黄変

今年は短編部門に応募する。

書き出しは、「決断」に似た感じなってしまうなあと思いながら書き始めた。

平成七年十月、北海道大学病院放射線科の病室。

「六十歳、定年退職の日まで働けますか?」と、僕は主治医に尋ねた。

同じ年齢の主治医は、穏やかな笑顔で、

「大丈夫、そのために全力で治療します」と答えてくれた。

僕は、この医師の力強い言葉を信じ、全てを任せ、約四か月に渡る放射線治療を受けた。治療による様々な身体へのダメージはもちろんだったが、家族の心配する姿に心が痛んだ。

面会終了時間の二十一時、時間外玄関。六月に生まれたばかりの次男を抱き、五歳の長男と2歳の長女と共に帰っていく妻の後ろ姿を何度も見送った。その姿が見なくなっても、「無事に帰れますように」と祈りながら、しばらくの間、舞う雪を見つめていた。

 

平成八年四月から学校に戻った。町の札幌のベットタウン化の施策により、人口増、勤務する学校も二年のうちに生徒数が二倍となり、五百人規模の学校になっていた。

そのような状況の中、学校が、所謂、「荒れた」。喫煙や飲酒、暴力等の問題行動が多発し、日常の多くが成立しなくなっていた……

 

その頃の思い出の曲。

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長男が遊んでいたのこれ。
スーパーファミコンの時代。

 

こんな事故も起きた。

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「決断」というテーマで文章作成中 伝わるかな?

連休に入ってから,まとまったものを書こうと思って,現在,作成中。

まだ,途中だけど,この思い伝わるかな?

 

令和二年九月、この癌の告知を受けた。癌は初めてではない。平成七年十月、上咽頭に癌になり、約四か月入院して放射線による治療した。それから、二十五年、扁桃腺の近くに新たな癌ができたのだ。その当時、三十二歳だった僕は、「六十歳の定年退職まで働けますか?」と放射線科の主治医に尋ねた。

「そのために全力で治療します」と力強く答えてくれた。

しかし、定年まであと五年という時に、新たな癌が私を深い不安に陥れたのだった。

 

地方の病院で告知を受けた後、今後の治療方針を決定するため、看護師をしている次男と共に、大学病院に向かった。上咽頭癌の治療をした病院である。耳鼻科の診療室、医師に「やっぱりそうだ!」と迎えられた、そして、「名前を見て、そうじゃないかと思っていましたよ」と。二十五年前、治療してくれた医師が、今は、教授となっての再会だった。

遠い昔の自分を知っている人に治療してもらえる。このことで、不安の沼にズブズブ沈みかけていく中、救いの手が差し伸べられたように感じた。

 

鼻からカメラが入いる。一瞬、ツーンとする。窓から晴れた空を見る。澄んだ青色が遠くまで見えて、ビルの街を覆っているように見える。

医師は、「癌は広い範囲に及ぶ」というようなことを前置きにして、これからの治療について、3つの方法が考えられると説明した。

一つ目は放射線。完治を目指して、できるならこの方法が1番よいということだった。しかし、この後、放射線科を受診して、今回は放射線による治療は無理と判断された。上咽頭に照射した際、かなり広い範囲に放射線がかかっていて、今回も放射線治療をすると重複する部分が出てくる。二十五年経過しても、重複した照射はできないということだった、

二つ目は手術。首のから切って、顎の骨を一時的に外し、癌を取る。取った部分には、太腿からとった肉を移植する。丸一日かかるような大がかりの手術になる。

そして、後遺症として、呑み込めず、口から十分な栄養を摂取することが難しくなることもある。さらに、「言葉が出なくなることもある」と説明された。

 

三つ目は化学治療、所謂、抗癌剤による治療だ。これは癌の進行を遅らせるというもので完治を目指すというものではない。奇跡的に癌がなくなったという症例もないわけではなかった。しかし、それは奇跡に近い。ただ、医学が日々、進歩する中で、より効果的な抗癌剤が開発される可能性がないわけではなかった。

 

命を考えれば、手術するのが賢明な判断だろう。当然、医師からも手術が提案されると思っていた。しかし、医師の説明は意外だった。

「よく考えて決断せよ」ということだった。

手術をすれば、想像以上に後遺症が辛いということだ。仕事柄、人前に立ち、話すということが難しくなくかもしれない。口から十分に食べることができなくなるかもしれない。このような後遺症を抱えながら仕事を続けるは無理かもしれないということだ。

六十歳まで、あと、五年。定年のゴールテープは見え始めていた。

平成七年の上咽頭癌、さらには、平成八年には潰瘍性大腸炎により大腸のすべてを摘出していた。それなりの後遺症を抱えながら、ここまで生きてきた。天職と思う、「人を育てること」に情熱を燃やし、今日まで生きてきた。

校長として、学校を任され、三校目、「生徒が自分らしさを生き生き発揮できる学校」にしたいと、今もやりがいを感じる毎日だった。

この仕事を失うことは、命を失くすことに等しい。

 

化学治療の効果ついて話を聞く。

「効果は人それぞれだね」

私は「もし、十分な効果が得られず、最も早く命を失うことになったら…?」と聞いた。

多少の喉の痛みがあり、時より熱が出るようなことはあったものの、仕事ができない状況ではなかったので、言葉よりずっと楽観的な思いでいた。

しかし、医師の回答は予想外だった。

「早ければ1年半で、出血し始めて…」

1,2年という年単位ではなく、半年と示されたことに現実感があった。

「1年半で死ぬこともあるんだ」とボーっとした。胸がザワザワして、つかみどころのない思がした。

「次回までよく考えて決めてくださいね」と自分で決めなくてはならなかった。以前の上咽頭癌の時とは違っていた。この時は、命の問題と生きる方の問題を合わせて考えることができた。また、自分自身が決断することなく、医師から提示された放射線による治療を受け入れ、信頼して、全てを委ねればよった。

今回は、命を選ぶか、生き方を選ぶか、どちらかを優先しなくはならない。

1年半の命と天秤にかける後遺症だから、かなりひどいものなのだろう。だからと言って、抗癌剤の奇跡、可能性に託す勇気を持つことができなかった。

帰りの車の中がひと言、つぶやく。

「1年半は短いよね」と。

いつからか、「人は病気や事故で死ぬのではない。寿命で死ぬのだ」と考えるようになった。それは、癌になっても、大腸を失くしても、こうして生きてきたから。たくさんの人に出会い、時にわがままであっても、優しい仲間に支えられて、今日があるから。

病気も事故も人生における自分の果たすべき役割であり、その使命を終えた時、これが寿命だと。

こう言うと,とても潔く,死を受け入れ生きているようだが,今回のような新たな生死にかかわる岐路に立ったときそのような割り切った生き方,考え方に達していない自分を自覚した。これまで自分が考えてきたように,寿命というものが設定されているのなら,その終わりや残されている使命を教えてほしい。そこから逆算して,この決断をしたいと思った。

手術をして,職業を続けられなくても,後遺症を受け入れながら,命を延ばしていく人生。

抗癌剤を投与しながら,不安を抱えながらも,仕事を続け,奇跡を願う人生。あっと言う間に終焉を迎えるかもしれないけれど,最後まで天職と思えることを全うできた生き方。

「手術をするか,しないか」,この選択はどちらも,デメリットが大きすぎて,前に足を進めることができなかった。

 

令和4年4月。

あれから2年以上が経過した。この間のほとんどは,コロナ禍にあり,多くの制限や条件のある毎日であった。若干,感染状況は落ち着き,このまま収束してくれることを願っている。

 

終わりからの2番の入学式。今回が終われば,ラスト1回だ。保護者も,上級生も参加して挙行できた。

体育館のステージから,生徒に向って、

「式辞。令和四年度,本校に入学される三十五名の皆さん,入学おめでとう。皆さんの入学を心からうれしく思います」と話し出す。

そして,鼻から息が抜け、言葉がはっきりしないから、心配になり

「話してること分かる?」と尋ねる。コロナ禍で大きな声を出せない生徒は、『大丈夫』と手を振ってくれる。

電話では名前すら分かってもらえないこともある。相手を不審な思いにさせ、電話を切られることある。

食べ物は呑み込みにくく、さらに蒸せて咳き込む。外食時には、このご時世だから、他のお客さんに睨まれることもある。食べた物がうまく喉に流れず、鼻から出てくることもある。コロナ禍にあり,職業のお付き合いによる会食等の機会がないことは助かっている。

空しくなるのは,ギターを持った時,歌えないこと。高校時代から,仲間と共にバンド活動を続けてきた。その時々の思いを歌にして,自分たちなりのメッセージを伝えてきた。しかし,今は音程も取れないし,言葉もはっきりしない。人前で歌うことなど,まずはできないだろう。

あれから,二年以上経ち,生きてしまっているから,もし,寿命があと十年以上に設定されているなら,一年短くしてもらってもいいので,歌える一年がほしいなどと思うこともある。これも命あってのことだ。

 

手術を決断した。後遺症を抱えながらも,命を優先し,生きていこうと決意した。おにぎりを美味しく食べる,しかし,飲み込もうとした瞬間,蒸せて咳き込み,耐えられず,米粒が目の前に飛び散る。そんなことは日常に起こる。情けない気持ちがこみ上げてくることもある。しかし,給食も校長室で一人で食べるから,そんな姿を人にさらすこともない。咳き込む音が職員室に聞こえると,不快だろうからと思いドアを閉めると,「気にしないので開けておいてください,のどを詰まらせてるのに気づかずにいたら大変ですから」と優しく笑ってくれる。

 

ご縁があって,看護学院の講師を依頼され,二十五人の将来の看護師と共に,国語表現法を学んでいる。新たな挑戦だ。「話していることは問題なく,分かりますよ」という言葉にほっとする。これまでの長い入院生活中で,多くの看護師の皆さんに支えてもらってきたから,恩返しできる,そして,人材育成できることがうれしい。

 

あともう少し~まとめ的なことを書いたらおしまい!

 

 

 

告白するなら~

昔,昔,「~するなら,電話か手紙か?」という題で話し合いついて学ぶという実践をやったことがあった。懐かしい。

あれから,30年,こんな課題を考えてみた。

【課題】

亮介君と双葉さんは,北海道A市の高校の同級生でした。双葉さんは地元A市の看護学院へ進学。亮介君は遠く九州の大学へ進学しました。

GWに亮介君は帰省,その際,双葉さんを含め,数人の仲間と再会し,近況を報告し合うなど楽しいひとときを過ごしました。

数日後,九州に戻った亮介君は,高校時代から憧れていた双葉さんへの思いが募り,自分の気持ちをどうしても伝えたくなりました。しかし,会えるのは,早くて夏休み,7月下旬。

今,亮介君は,この思いを「ライン」で伝えるか?電話で伝えるか?

悩んでいます。あなたが亮介君なら,ライン?電話?

どちらで思いを伝えますか?

 

相手意識や目的意識,方法意識をもって伝える。目的を達成するためには,どちらの方法が適切と考えるか?もちろん,正解はない。人それぞれ。道具の特徴もあれば,使う人の得意苦手もあるだろう。
どっちを選ぶ人が多いのかな?という興味はあるが,それが問題でなく。こちらが適切だと説得力の文章を書く練習。

まずは,経験を元に書くところから。

次には,電話とラインのメリットとデメリットの比較。その比較した結果をどうのように分かりやすくまとめるか?などなど。
考えやすい題を設定し,考え方・書き方の練習をしてほしいと願うのだ。

 

分かりやすい書き方の参考にあれこれと読んでいる。

生徒の書いたものを読むと,
「もう少し漢字を使ってほしい」「丁寧に書いたらいいのに」とも思う。

せっかく良いことを書いていても,見た目,稚拙に感じてしまうね。

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ライブまで1週間,ワクワク楽しみ!

不登校を考える 4 行きたくなる学校!

多様な要因が絡まって,「学校に行けない」というケースではなく,

「積極的に学校に行かない」ケース!

「学校に行くよりやりたいことがある,だから,学校に行かない」という気持ちを否定しないし,それどころか,それほど夢中になれることがあるというのはよいと思う。

さらに,それが将来の自立につながることであれば,その生徒の立派な生き方だ。

スポーツ選手や芸能活動をして人は,どのくらい登校できているのか?そんなことは問題にされてない。

これまでも書いてきたように,学校に来るが当たり前ではなく,生徒にとっては学校に来るよりずっと大事なものがあったりする時代,社会。

生徒の多くが学校に登校することよりやりたいことに夢中になり,そして,教室にいる生徒が少数になるとなっても,何ら不思議はない。

もちろん,やりたいことを自立レベルまで高めることはかなり難しいことであるとは思うが。

こう考えると,僕らは生徒が来たくなる学校づくりをしなくてはならないということ。そのため,生徒のためと言いながら,大人の都合が優先される状況を極力なくし,生徒に寄り添い,生徒が主体性を発揮できる学校にするということ。

生徒の今ではなく,将来の自立を考えて指導するということ。何か課題を抱えている生徒が今,そのことを改善できなくても,「いつか,きっと」,変わってくれる,解決してくれると信じて寄り添うことができるということ。

今回の学校だよりに次のようなことを書いた。

「もちろん,3年間通して貫いた頑張りは大いにアピールできるでしょう。しかしながら,落ち込む時期を経て,自分のよさに気が付き,そこから努力したことも素晴らしいことだと僕は思います。

もっと言うなら,落ち込む時期があったからこそ,気づける,輝けるということもあるということです。」

今日,看護学院で,初めて対面での講義をした。

90分という長さに,研究所での講義を思い出した。時間の配分が難しい。

そして,生徒の皆さんは,具体的にやりたいことを見付けて,ここで学んでいるのだろうなと思うとうれしくなった。

講義の振り返りを書いてもらった,いろいろなことが書かれていて楽しかった,うれしかった。そのまま日常で使えるあれこれを伝え,練習してもらいたいと思ってる。

学生からぜひと紹介されたYouTube!「平成フラミンゴ」

「沼る」という言葉を初めて聞いた。

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学生が今,読んでいると書いていた本。

 

 

 

 

 

不登校を考える 3 いじめとのかかわり 加害者にされた気持ち!

不登校

追いやった生徒が平然と学校生活している……」

とフェスブックにコメントをいただいた。とてもありがたいことだ。このようなコメントによって,考えを広げたり,多角的に考えることができたり,より深く掘り下げたりするきっかけとなるので大歓迎で!うれしい。

 

今回のコメントは,いじめとの関連。いじめの被害者が不登校になり,加害者とされた生徒は,引き続き,学校生活を送っている。このような事実にかかわる学校批判,学校不信ということだろう。

これは不登校の問題ではなく,「いじめ」にどのように対応するかということになるだろう。

まず,「いじめ」の認知に関する課題。加害者の生徒が明らかに悪意を持って,嫌がらせをしたり,仲間はずれにしたりしたならば,これは絶対に許されない。加害の生徒はもとより,観衆や傍観者となった生徒にもしっかり指導する必要がある。
しかしながら,加害者と言われた生徒が悪意はなくても,被害者となった生徒の受け止め方でいじめとなることもある。結局,悪意なく,もっと言えば,被害者生徒にとって,よかれと思った言動が,被害者生徒にとっていじめと解釈されてしまうケース。このような事案の解決はとても難しい。

例えば,Aさんが,Bさんに「ジャージの後ろに穴があいてるよ」と教えてあげた。

それに対して,Bさんが「みんなの前で恥をかかされた。いじめだ。明日から学校に行けない」となったら……。もちろん,Aさんには全く悪意はない。Bさんを思ってのことだ。
もしかしら,Aさんの言い方に工夫ができたらよかったのかもしれないが,このようなことに気が付いても黙認しまいがちな人間関係において,Aさんに「話し方まで配慮しろ」と言うのは酷ではないか?

ある生徒が,ある時に,僕に訴えた。

「いじめの加害者にされた人の気持ちを理解してほしい」と。

このような事案に対する意見は様々,正解はない。ご意見を大いに伺いたい。

 

「子どもを何とかする前に,それをしようと苦悩しているママ自身をまずなんとかするのが最優先です」(本書からの引用)

 

気持ちが厳しくなると,この動画を見て,気持ちを奮い立ててます。
ライブの臨場感が伝わってきます。

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