生かされること 生きること 13(自分史)

14 命⑩~上咽頭腫瘍 6

 平成8年3月に職場に戻る。

 後遺症的なものは、「唾がでないこと」。話しにくかったり、虫歯になりやすかったり。「首が晴れたこと」。風邪などをひくと、首が腫れた。パンパンに腫れて、皮膚が破れてしまうほどの時もあった。

 

 体より、気持ちが早く回復していって、仕事に没頭していった。学校はますます荒れていった。そのような中にあって、研究会で授業を公開したり、研修会でお話しさせていただいたり、仕事としては充実期を迎えていた。

 

 平成9年4月から3年生の担任となった。喫煙、飲酒、暴力、器物破損等の指導に追われた。こんなエピソードがある。

 Nは喫煙などの問題行動などがあった生徒だった。

しかしながら、柔道には一所懸命で私立高校からのスカウトもあった。条件は、学校推薦が必要とのこと。

学校推薦会議にかけるも多くの先生の反対。もちろんそうだろう。

家庭訪問、保護者にその旨を話す。父親が、「どうしたらいい」と。「だめなのは理解できるが、この子の唯一頑張ってきたことなので応援してほしい」と。
担任として、再度、会議に提案、「可能性にかけたい」と自分の情熱で押し切った。
1年後退学。

 ある月曜日の朝。

 「昨日、Nが先生を尋ねて来てたよ」と。その日曜日は部活もなく、勤務していなかった。
 数時間後、Nの友人の保護者から電話。
 「Nが死んだ」と。
 学校に寄った後、乗っていた原付で転倒。用水路に落ちて、気を失い、そして、溺死。
 Nは最後に何を話したかったのか?

 

 そんな時代だった。

 

生かされること 生きること 12(自分史)

13 命⑨~上咽頭腫瘍 5

 それから、2月一杯自宅療養した。

 痛み止めだったモルヒネの減量がうまくいかず、辛い時期もあったが徐々に体力も回復していった。

 2月上旬、ニュースは豊浜トンネル崩落事故の様子を流していた。
 幼稚園から帰ってきて長男は、いつもテレビゲーム「ドンキーコング」を。

 

 入院中見ていたテレビドラマは、「白線流し」。この主題歌スピッツの「空も飛べるはず」を聞くとこの頃を思い出す。ドラマの初回、主人公たちがミスターチルドレンのコンサート帰りのシーンから始まる。これが入院前の夏に友人と行った「スタジアムツアー」だった。

「シーソーゲーム」という曲が思い出だなあ。

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入院中、テレビ放送があって見てた記憶が……。

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生かされること 生きること 11(自分史)

11 命⑦~上咽頭腫瘍 3

 放射線をかけ続けるという治療については、強烈に辛いということはなく、淡々と回数を消化していた。

 だから、命をもっていかれるというような感じは全くなかった。

 きつかったのは周囲の人たちの負担や心配を感じる時だった。

 お見舞い来てくれた、中学校時代の担任先生が話しているうちに涙ぐまれて、逆に僕が掛けることが思いつかず困ってしまった。

 その頃、札幌の中央市場に勤めていた父は勤務が午前中に終わると、ほぼ毎日、病院顔をだしてくれた。ただ、毎日、会ってみても、昨日から今日で大して改善されることもなく、病院の中で起こるエピソードもしれているので、話すこともない。

毎日通ってくれる父の思いが十分に感じられ、心配かけている自分が切ない思いであった。

 妻は、生まれて半年の次男を抱いて、左手に長女と手をつなぎ、そして、長男と病院に来た。

 後から、聞いた話だが、命の確率は、6割4割と言われていたらしいので、どんなにか辛い思いをしていたことだろう。

 

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生かされること 生きること 10(自分史)

10 命⑥~上咽頭腫瘍 2

 告知から、約1か月後、北海度大学病院への入院。その頃には、首のリンパ節がパンパンに腫れてうまく呼吸ができない状況だった。入院した時には、腫瘍というより、窒息していまうことを心配されたくらいだった。

 

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 治療の主たるものは、放射線。入院期間は約4か月。その頃は、絶食しての治療だった。潰瘍性大腸炎の時と同様、鎖骨からのIVH。顔に照射するためのマスクを作った。

 

 治療は順調で、最初の数回の照射でみるみる、首の腫れは引いていった。主治医の先生もよくなっていると話してくれたし、何より自分自身が楽になってるという実感があった。

 主治医は、丁寧で誠実に対応してくれたし、同じ年齢ということもあり、信頼できた。

「定年まで、60歳まで働けますか?」と聞いたところ、

「大丈夫、そのために治療するから」と言い切ってくれた。

 

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生かされること 生きること 9(自分史)

9 命⑤~上咽頭腫瘍 1

 転勤して、平成5年から2年生の担任をし、その生徒たちが平成7年の春に卒業。引き続き、今度は1年生の担任になる。

 春から耳の調子が悪かった。3月に、東京ドームでローリングストーンズのライブへ。聞こえが悪い。個人病院なども受診したが、「炎症だね」と言われて、それなりの治療受けたが、どうもよくならなかった。

夏には、ミスチルの野外フェスへ。一緒に行った友人に、「耳の聞こえが悪いんだよね」などとお話していた。

 そして、9月。学校祭の振り替え休日に、当時、妻が勤務していた耳鼻科を受診。北海道大学からの出張医に見てもらった。

「まずいかも……」という見立てで、細胞を採取しての精検。

 

 1週間後の受診。
 「上咽頭腫瘍」との診断。
 その時のやりとりをよく覚えている。

 

医師「上咽頭腫瘍ですね」
私 「癌ですか?」

医師「みたいなものです」
私 「死にますか?」

医師「調べてみないと…」

 所謂、告知とはこのことだと思った。

 

 学校に戻って、教頭に報告。

「癌でした」

「辛いかもしれないが、家族も……」と何を言っているか分からなかったが、僕を少しでも励まそうと言葉を選んでくれているという気持ちは理解できた。

潰瘍性大腸炎との闘いの他に、もう一つ、おまけどころか、それ以上に重い荷物を背負うことになった。

 

 教室に戻って、給食時間。
 お昼の放送で、岡本真夜さんの「tomorrow」が流れた。

 「自分に明日が来るのか」と急に思いが込み上げてきて、涙が出た。
生徒の一人が気づいて、「先生、どうしたの?」と何度も聞いてくれたが、言葉が出てこなかった。

 

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生かされること 生きること 8(自分史)

8 命④~潰瘍性大腸炎 4

 結婚式を挙げ、それからの数年間は、11月頃くらいになると、多少、悪くなるものの、上手に病気と付き合うことができた。

 その間に、長男、長女、次男にも生まれた。

 職場も道東の町から、故郷に近い、道央の町に異動できた。これが平成5年のこと。この町は、札幌のベッドタウン化を打ち出し、積極的に人口増の施策を行っていた。
そのような情勢の中で、学校も、着任当時、1学年2学級の小規模だった学校が5年くらいの間に、1学年5学級の大きな学校へと変わっていた。

 そして、どんどん学校が大きくなる中で、その対応が後手後手になり、学校が荒れに荒れていった。授業が不成立、校内の喫煙、器物破損など、毎日毎日、その指導、処理に追われた。

 

このころ、この本を繰り返し読みました。
「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」 

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生かされること 生きること 7(自分史)

7 命④~潰瘍性大腸炎 3
 入院してすぐ、絶食となった。鎖骨の辺りから、管を入れて、24時間の点滴。

どんな薬を使っていたか、あまり覚えていないけど、ステロイドを点滴で流しながら、治療してたように思う。

 カメラの前も、その頃は、マゴコロ―ルがなくて、ラキソベロンだったかな?下剤を使っていて、なかなか大腸がきれいならず、結局、浣腸をかけたりしながら、やっていた。

 なかなか炎症が収まらず、出血もひどかったから、数度にわたって輸血をした記憶もある。

 内服で、名前は忘れてしまったなあ~。オレンジ色の大きな玉の錠剤を飲んでいたように思う。サラゾピリン?っていったかな~。

 12月の入院だったから、お正月に帰ることもできず、病院で年越しだった。

救いは、すでにお付き合いをしていて、その後、妻となる方がその病棟の看護師、その頃は看護婦だったこと。

 4月に結婚することになっていて、結婚式の日取りも決まっていた。

 学生時から、彼女の勤める病棟に入院していたということ。

 病棟の方々も、新婦の職場の方々として、当然、結婚式にご紹介していて、ドクターも結婚式に間に合うようにと一生懸命に手を尽くしてくれた。

 彼女も、結婚式間際まで、入院していた潰瘍性大腸炎患者と結婚してくれたのだから、ありがたいというか、感謝というか、「愛」というか……。

 その後、寛解し、3月の中旬に退院した。