生かされること 生きること 20(自分史)
21 命⑭~中咽頭癌 1
時代は平成が令和へ、その元年に校長として3校目の学校へと異動。4月から喉の痛みが取れなかった。いくつかの個人病院を受診したものの、頓服的な痛み止めをもらう程度で根本的な解決にならなかった。
そのうち、夏になって、高熱が出ることがあったり、瞼が腫れることがあったり、総合病院へ、初診で、「やっぱりか……」の結果だった。よくないものがありそうなので、精密検査をとのことだった。
そして、熱が下がらなかったので、そのまま入院となった。
CTほか、様々な検査をして、診断結果は、「中咽頭癌」。
20数年前に「上咽頭癌」や「潰瘍性大腸炎」で治療したあの大学病院への紹介状をもらい、受診することとなった。
9月下旬、看護師をする次男に付き添われて、大学病院に向かった。
3校目の学校のご近所でした。
コロナ禍にあって、労いにお菓子もいただきました。
しっかり眠れてますか?
これらを使うようになって、
眠りが変わりましたよ。
生かされること 生きること 19(自分史)
20 生きる力 ⑦
指導主事として、北海道教育委員会に勤務することを終え、学校現場に戻った。
10年の指導主事時代でたくさんの人に出会ったし、教員ではできない経験もした。終わってしまったことだし、やって無駄なことはないので、よかったと思っているが、指導主事にならなかった人生と比べるとどうだったのかは疑問だ。
しかし、きっと、運命と呼ぶか、宿命と呼ぶか分からないけれど、決められてた使命だと思い、価値ある年月であったと考えている。
この頃に考えたのは、「人は病気や事故では死ぬのではなく、寿命で死ぬということ」
「人は生きる使命をもち、生かされているということ」
教頭として学校に戻ることになった。元々、中学校の教員であったが、今後、中学校の校長になることを考えて、敢えて、小学校での勤務を希望した。
教頭として3年、その後、校長に。
現在、校長に採用されて、4校目で、定年退職まで3年を切ったところ。
ここが最後の勤務校となるだろう。
短編を読む!
生かされること 生きること 18(自分史)
19 命⑬~C型肝炎
僕自身の病歴から言えば、通常なら大きな治療もおまけみたいなもの。恐らく、母子感染だろう、肝炎の症状が血液の状況に現れるようになった。
日常が前述のような生活ため、体の不調は疲労なのか、肝炎によるものなのか分からない状況だった。
母は、平成14年、肝炎と糖尿病を併発し、最後は肝癌により、若く64歳で他界した。指導主事になることが決まった僕に、「遠くに行くのか?」と尋ねたのが最後の言葉だった。
C型肝炎の治療はインターフェロンで、かなり無茶な対応をしてもらった。
というのも、忙しさから十分に休むこともできず、朝、早朝に採血に行って、その後、勤務。夜、7時くらいに夜間外来に行って、注射してもらうということをやっていて、「次回は医師に診断してもらうように」といつも言われながら、結局、夜間に通い続けた。
このインターフェロンも劇的に効果があり、最初の数回でウイルスが消えた。
短編小説の勉強がしたくて読んだ本。
組織作りについて勉強した本。
生かされること 生きること 17(自分史)
18 生きる力 ⑥
指導主事の一番の仕事は、各学校を訪問し、授業を参観したり、それにかかわるアドバイスをしたりする。また、事務的なものとして国や北海道が実施する教育関係の調査の集約、さらに研修等の立案や運営、各種資料づくりと多岐に渡った。
限られた勤務時間の中で、これらの仕事は終わることなく、早朝から勤務したり、帰りも日を跨いだりすることも度々だった。
学校現場に比べ、上司との関係も面倒で、飲み会の設定・変更にかかわり、上司の自宅に行って土下座することもあった。
もちろん、面倒をよく見てくれて今でも交流のある方もいらっしゃるが、職員全体の前でミスを公表し笑いの対象にしたり、「ついでだから言うけど…」と言いながら憂さ晴らしのように指導してみたりと結構な方々もいた。しかし、考え方を変えれば、これだけのことをしても壊れないと見込まれてのことだったと思うので、そう考えれば過去の出来事として封印できる。
このようなエピソードを妻に話すと、「好きでなったんでしょ。私は、中学校の先生でよかった」と。全くその通りだろう。散々、病気で心配かけて、元気になったら。家族を放って好きなことをやっているのである。「愚痴なんて言うな」ということだろうし、指導主事で働くことは経済的に潤うことなく、却って、単身赴任でお金がかかり迷惑な話だった。
季節ですね。さっと食べれるし単身赴任者にはうれしい、おいしいよね!
生かされること 生きること 16(自分史)
17 生きる力 ⑤
体調も安定していく中、校内における授業研究等に力を注いだ。若い職員が多い職場だったので、35歳を過ぎる頃には、リーダー的な役割をになうようにもなった。その頃は大きな教育の転換期にもあり、公開研究会を開催し、200名以上の教員が集まった。他校へ行って、実践を発表したり教育書に執筆したりするような機会も随分あった。
ディベートの実践との出会いも大きく、この取組を通して、多くの方と出会い、たくさんの刺激を受けた。
今もこの実践そのものが、さらにこの実践を通して学んだものの見方・考え方が人生を土台となっていると言っても過言ではない。
「ディベートをやってみたい」という生徒を募って、この頃に始まった「ディベート甲子園」に出場。5年連続して全国大会に出場することができた。
そのような中、平成14年4月、一度は断念した北海道教育委員会の指導主事となった。ここから、10年、学校現場を離れた教育行政としての仕事に従事した。
また、ここから家族と離れ、単身赴任生活となった。
最近のお気に入りはこれです。かっこいい。
この本から、学んだことを生かして、1時間くらいのキャリア教育プログラムをやってみようと思うんだ。
生徒をイキイキさせたいね。
生かされること 生きること 15(自分史)
16 命⑫~潰瘍性大腸炎 7
内服での治療についても回復の目途が立たず、外科的にという話になっていった。
「Jポーチ」を作るということ。大腸を全摘して、小腸で袋と管を作って直腸とつなぐということ。しかし、今、入院中の病院ではまだやったことがないと聞き、不安になった。
このようなことから、大学病院を紹介してもらった。
大学病院へ転院。
なかなか大学病院を受診することが難しい中、スムーズに移ることができた。
手術は、2回。1回目は袋を作るオペ。時間は7時間に及んだ。僕は寝ているうちに終わった感じ。癒着防止のために、目覚めて間もなく、妻の方を借りて立ち上がった。大腸がなくなるということに対して、大きな恐怖とかなりの不安があったが、終わってしまえば、ただそれだけのこと。
そして、3か月後に直腸とつなぐ。その間は、所謂、人口肛門生活だった。この手術をもって、苦しんできた「潰瘍性大腸炎」との生活にもさよならだった。
しかし、つないで1週間後、猛烈な腹痛。
癒着して、詰まった状態なった。
即、入院。鼻から管を通すようなことをして、改善を促すような治療をしたものの、状態はよくならず、再度、お腹を開くことになる。
術後、主治医2人の会話。「見事な切りっぷり。さすが、アメリカ帰り。これからは詰まらないように、管は2本にしておいたから」と。大腸を全摘するということも、若い医師にとってはこれくらいのことなのだろう。逆に、この明るさが心に響いた。
この後も少しの間、癒着気味になって、腹痛になることもあったが、大事とはならず、今に至る。
常に便が緩いので排便回数が多かったり、寝ているときに失敗してしまうことあったりするが、あの痛み、さらには血を見ることの精神的な苦痛から解放されたことを考えるとメリットの方がかなり大きい。
また、人前に立つことの多い職業だが、人の目には上咽頭腫瘍を含め、分からないのも幸いだった。
生かされること 生きること 14(自分史)
15 命⑪~潰瘍性大腸炎 6
喉は回復していき、仕事も順調で、平成10年の1月には次のステップとして、北海道教育委員会へ入る試験を受けたりもした。
しかし、いつものように雪の降るころから、お腹がグズグズ言い出し、出血、下痢という状況になっていた。年が明けて、1月上旬、その試験を受ける頃にはかなりの腹痛もあった。それでも楽観的に考えて、春になって、やんちゃな彼らも卒業し、暖かくなれば回復するだろうという感じで考えていた。
ところが、日に日に体調は悪くなるばかりで、とんでもなくお腹は痛み、食べれば下痢、大量の出血、僕は這うようにして病院に行った。
「大腸が削れて薄くなっていて、破裂するよ」と言われ、そのまま入院。3日後には、大きな総合病院に転院した。
その頃の3年生の担任の業務としては、入試にかかわり個人調査書、所謂、内申書の作成。事務的に転記する部分は副担任の先生にお願した。ただ、所見については担任しか書けないので、病院のベットで必死に書いたことを覚えている。
それから2か月、内服での治療、さらには、記憶が定かではないが「白血球除去治療」、保険外の治療もしたが、一向によくならなかった。
ライブを楽しみにしているが、
開催されるのか不安!
最近のおやつはこれなんです。
読み返しています。